パパタラファイナルフェスティバル ヤノベケンジ&小池博史スペシャルインタビューその3

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7月31日〜8月10日まで、流山市生涯学習センターにて開催された”パパ・タラフマラファイナル美術館”にて、現代美術家のヤノベケンジ氏とパパ・タラフマラ演出家の小池博史がトークイベントを開催。
今回、初展示となった、ヤノベさんの「ガリバー&スゥイフト」における舞台美術作品を前に、当時の制作秘話やお互いの印象、制作にかける思いなどを語り合いました。

その2からの続きです・・・ (その2コチラ

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intervew_img_yanobe.jpgヤノベケンジ氏(以下、ヤノベ)
今日初めて会場を見たのですが、本当に充実した展覧会を・・・いや、自分の作品をみていっているみたいですけれど・・・ほかの方の作品を含めて、民族学博物館みたいに、実際に使っていた人々の魂がこもったものをみているような気がしました。この展覧会はもっとたくさんの人に見て欲しいし、見てもらうべき。別の何かを生むきっかけになるんじゃないかなと思います。
intervew_img_kikh.jpg小池
基本的には、展示のために、オブジェを磨きこもうとか色を変えようとかそういうことをやっていません。剥がれたら剥がれたままでいいんじゃないかと思って展示しています。さっき、「この明かりが・・・」って照明を直していたら、今日フリートークすることを忘れちゃってましてね(笑)。こういうのは、やり出しちゃうと忘れちゃいますよね。
intervew_img_yanobe.jpgヤノベ
小池さんが舞台をつくるときの完璧主義な感じを知っているので、すごく想像できます。舞台だけじゃなくて、こういう展覧会でもものすごい力を発揮されるんだなということがわかりましたね。
intervew_img_kikh.jpg小池
この場は「人の匂い」ということをテーマにしようと思いました。人が存在するということに焦点を当てて、人は何か、どういう風に生きてきたのかということを同時に考えたいのです。要するに命ですよね。一つの命、あるいは破壊というものを描ければなと。あるいは、「旅」。どこかに行くということ。
メキシコの詩人で思想家のオクタビオ・パスが書いた「孤独の迷宮」という本があります。大学生の頃に読んで、「孤独性」というものが一つの解放を生んでいくんだっていうのを知ったことが、僕にとってはすごく大きく残っています。集団が密になることによって生み出せるものがあって、そして同時に、その中に「孤独性」が入りこんでいくことによってはじめて得られる解放がある。その両ベクトルを、この空間でも多少なりとも味わってもらえるようにという気持ちで創りました。

10_8_00725_web.jpg図01

10_8_00652_web.jpg図01

20110803_0077パパタラ美術館.jpg図01

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たしかに、全体のテーマというか統一感が感じられたので、いまの説明でよくわかりました。今回、自分の作品がこんな風に美術館で展示されたことが、僕としてはすごく本望です。「舞台上でよく見えたらいい」とかいうつもりで創ったものはまったく無くて、常に間近で見ても納得ができるものを創っていたいと考えていました。カプセルも、鉄とか構造的に丈夫なものや、質感も本物の材質感のものを創っています。演じている役者さんの身体能力に耐えうるものを創らなくてはならないし、それに、役者さんがその世界観に純粋に没頭できるくらいの作り込みをしていったほうが、パフォーマンスにもより強度が出ると思ったんですよね。
猫の仮面なんかは僕がスケッチしたものを職人の方に彫っていただいたんですけれど、初めて実物を見たときは工芸品として間近で見ても遜色なくて、「これはすごいな」と。このクオリティですべて創っていきたいと言う気持ちになりましたね。

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展覧会並みの舞台美術

intervew_img_kikh.jpg小池
あの骸骨の飾り物は、役者が脚につけて、手で口が動くようになっていて、そうやって骸骨が踊りだすようにみせるものなんですね。これを新国立劇場でやったら、舞踊評論家からは「とんでもない」って言われます。舞踊というものは美しくなければならないから、美しくない舞踊は許せないんだそうです。でも、とんでもないっていうことはすごく重要ですよね。一方で、今は世の中が「とんでもなくないもの」ばっかりになってきているんじゃないかって。
intervew_img_yanobe.jpgヤノベ
もしかすると、「こういう風に考えるべき」というものが刷り込まれているかも知れないですよね。言葉で理解しなくていいんです。若い人たちって洋楽を聴くじゃないですか。英語とかわからないのに、体が動いて感情が動かされることってありますよね。そういう気持ちで、頭で何も考えずにすべてを吸収していたら、へんてこな発想なんかもどんどんでてくるのかもしれないです。こういうことは子供の方が割とすんなりと反応できるのかもしれない。
僕には、何でも頭でわかりやすく考えようとしてしまうことが、危険なことのように思えます。今は魂の生存能力や本能に従って生きていくということが問われる状況だなと思うんですよね。多くの人が遺伝子レベルの生存本能に忠実に従って思考回路を組むということができなくなってきていて、それが大きな問題として表出してきているんじゃないかな。

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intervew_img_kikh.jpg小池
全くその通りだと思います。僕が大学受験の前日に、フェリーニの「アマルコンド」という作品を観たとき何に一番感動したかって、それまで自分が経験していないことだったんですよ。新しい発見に、自分の中の何かが感性的なレベルで共振して、震えが止まらなかった。僕は、アートのすごさって、それによって受けた感動から、何かを始められるということにあると思うんですよ。そうじゃない適当なものを見ていると、適当なもので満足してしまい、慣らされてしまう。
ハリウッド映画って、あらすじから何から何まで非常にわかりやすいし、観ると確かに「なるほどすごいね」と感じる。でも、映画館から出ると、すぐに内容を忘れてしまいます。しかし、それが本当にいいものであれば、その感動は10年経っても20年経っても忘れない。そして、その感動がやがて大きなジャンプ台になるんです。だから、僕は全く中途半端なことをやりたくないんですよね。ワークショップだったら、3時間でできる最大限のことをやりたいです。その中にジャンプ台さえ見つけられれば、人間はいくつになっても変われるんじゃないかって、そう思っています。