パパタラファイナルフェスティバル実行委員会からのことば

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堤 清二 公益財団法人セゾン文化財団理事長
私たちは、パパ・タラフマラの解散を、いまの文化状況への痛烈な批判として受けとめるべきだろう。何処にも属さず、何物にも似ない存在者の孤独を、おそらく小池博史さんは誰よりも強く感じていたのではないだろうか。 今回の解散の決定は残念だけれども、よく30年走り続けられたという思いのほうが私には強い。
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天童荒太 作家
パパタラの舞台を体験したあとは、風景が違って見えた。あらゆる芸術を内包し、世界の美と混沌を、丸ごと表現しようとする世界唯一の集団に、私の偏狭な価値観は、驚喜して伸ばされてきた。発展的解散の道を選んだ彼らを惜しみ、讃え、感謝しつつ、最後の体験の機会を逃さぬようにと多くの人に勧めたい。
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是枝裕和 映画監督
表現を「メッセージ」といった言葉に置き換えることが作品を理解することだと考えている人にとってパパ・タラフマラの舞台は「異界」である。それは、演劇よりも音楽に近い。リズム。運動。身体。その美しさに触れることは僕にとって、自らの表現の濁りを再確認するためにも必要なことだ。
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谷川俊太郎 詩人
パパ・タラフマラの舞台を見ていると、そこで繰り広げられる多彩な身体の動き、声、音、言葉、光、物体などすべてが、まず一人の人間の脳髄から生まれてきていることに驚くのですが、同時にその脳髄が決して孤立したものではなく、古今東西の他の無数の脳髄ともネットワーク化していることにも気づきます。そしてまた脳髄が身体によって生かされていることを喜んでいるのだということも分かってきます。そこではいかなるクリシェの媒介もなしに、すべてがすべてのメタファーとして成り立っていて、混沌すら秩序のメタファーであり、無意味すら意味のメタファーなのだと感じさせられるのです。
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大杉 漣 俳優
パパ・タラフマラへのコメントぼくの所属していた劇団も23年前に解散しました。その時かんじたことは、明日からどこに行けばいいのかという不安と寂しさだったと思います。と同時に、これらはどこにいってもいいんだという自由というか解放感のようなものもありました。この二つの感覚は、とても大切なものです。小池さん始め皆さんの"更なる次"に期待しています!お疲れ様でした!! 大杉漣
orihara_miki_photoby-Maciek Kobielski.jpgPhoto by Maciek Kobielski
折原美樹 ダンサー・マーサグラハム
舞台人であれば、誰もが「トータルシアター」を目指すだろう。そんな夢のような舞台をパパ・タラフマラは作り上げて来た。ニューヨークの人たちは数回しか見る事のできなかった舞台。今のメンバーでの最後の舞台となる今回、日本にいる人たちは見逃すては無い!帰国できない自分が可哀想。あ~ 羨ましすぎる。
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葛西薫 サン・アド グラフィックデザイナー
重要なことはパパ・タラフマラという名前とその由来だった。もし違う名前だったら違うものを作っていたと思う。そのくらい、大きなものを引き受けていると感じた。パパ・タラフマラの皆が一生懸命踊り狂ってる姿を見ると、原始的な動物に還った人間の姿を思い浮かべ、そういうものが自分のなかにはまだあるのかと問いただす。そして人体はただの管(くだ)であることを想像する。それは僕にとっては大きな救いであり慰めとなる。
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森村泰昌 美術家
表現行為において重要なことが三つある。ひとつは、人とは違った表現に徹すること。ふたつめに、長く続けること。そして最後に、まだはじめたばかりの頃には誰にでも確実にある、新鮮で純粋で集中力のある表現の初期衝動を、いつまでも忘れないでいることだ。この表現における重要な三要素を、パパ・タラフマラはすべて持ちあわせている。30年も持続してきたなんてスゴイと思う。
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ヤノベケンジ 美術作家
小池さんとは初めて出会ったときから旧知の仲のように感じていて、この人となら刺し違えてもいいくらいの気持ちでした。最初にゲネプロを観たときは、正直、涙が出てきました。まるで自分の人生が芝居の中で演じられているような気がしたんです。これが「ガリバー&スウィフト」の仕事でもっとも大きな意味を感じた瞬間でした。
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安藤隆 サン・アド コピーライター
僕はパパ・タラフマラのコピーを書く時に、理解しあうのではなく、そこにあるものと、僕が考えている言葉を衝突させるという関係でいたいと、そう思ってきた。どんなに狂騒にみちた、極彩混沌超速の舞台世界であっても、底の底には、静けさと苦渋のようなものを嗅ぎつけようとしていた。んだけど。
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トラフ建築設計事務所

パパ・タラフマラの公演「パンク・ドンキホーテ」の舞台美術デザインを担当させていただいた。演劇でもミュージカルでもダンスでもない、分類できない枠組みに挑戦するスタンスにとても共感して取り組めた貴重な体験だった。

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木佐貫邦子 舞踊家
一橋大学の構内でお互いのチラシを交換したのがつい最近のことのように思い出されます。あれから25年?その後タラフマラは海外にもジャンジャン行って公演しました。けれど、いつも新品みたいに綺麗です。シミとかなくて本当に清潔なカンパニーなのです。
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KENTARO!! ダンサー/振付家東京ELECTROCK STAIRS主宰
僕が今年で31歳で、僕が生まれたくらいからずっと活動を続けてきた事に感動し、計り知れない苦労と勇気を想像してしまいます。解散は淋しいですが、終わる事で何かが始まる事もあると信じて、次なる活動を勝手に予感(期待)しています。
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港 千尋 写真家・著述家
想像力の船団、パパ・タラフマラ。未来からの風を受けて世界を航海してきた船たちが、最後の旅に出るという。乗ろうじゃないか―夢と笑いがいっぱいのカーゴを載せて、目指すのは未知なる感性の大陸。挑発する肉体、躍動する精神の軌跡は、すでに来るべき処女航海へとわたしたちを誘っている。
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村井健 演劇評論家
小池博史とパパ・タラフマラの30年は助走である。人生は長い。短いというヤツもいるが、それはだらだら生きているヤツのことだ。疾走、疾走、また疾走を重ねた者からすれば、人生は常に永遠だ。パパ・タラフマラは疾走する集団である。とどまることを知らない。30年前、新宿から走り始め、地球を一周して再び東京に戻った。いまは山手線を一周し、次なるスペース・ランニングに備えているところだ。主宰者の小池は貪欲である。演劇・ダンス・美術・音楽はいうに及ばず、哲学・思想・ゲーム・ラーメンに至るまで食い、走る。見ていて爽快このうえない! 今度は、地球を飛び出すかもしれない。
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河村錠一郎 一橋大学言語社会研究科  名誉教授(比較芸術・英国文学・美術)
小池君へ 解散は残念!でも君のことだ、次が楽しみ。きっと、これまで以上に素敵なアートを私の目の前に繰り広げてくれるだろう。学生のときから見続けて来たのだから、この確信は間違いない。今年も家の西洋朝顔ヘヴンリ・ブルーがきれいに咲いた。この花を見ると君の「青」を思い出す。2日にイギリスへ発つ慌しい今なのでとりあえずの激励で失礼。 河村錠一郎
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中川俊郎 作曲家・ピアニスト
輪廻転生とは、私たちが白い肌になったり黒い肌になったりし、ある時殺人を犯し、200年後にそれと知らず同じ相手に殺された、という連鎖を信じる思想である。私がタラフマラから読み取るのは、更にその先のこと、つまり永遠の生命の中では学びだけがあり、善悪の二元論は存在しない、ということだ。
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岩下徹 舞踊家/即興ダンス、山海塾舞踏手
パパタラさんの作品には、『street of crocodiles 2』に少しだけ出演させて頂いたことが有り、また小池博史さんプロデュース『手は水に触れる』での流血ハプニング、松島誠さんや小川麻利子さんとの即興ライヴ、P.A.I.での特別授業等々、何れの時も私には文字通り掛け替えのない尊く有難い時間です。心より感謝致します。
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佐伯 剛 風の旅人 編集長
個性とか自分らしさ等と安易に口にするステレオタイプが表現界や批評界に跋扈する中、30年間、ステレオタイプの停滞に陥らなかったパパタラフマラ。オリジナリティというのは、とてつもなく考え、神経を行き届かせ、身体を使い、心血を注いだ結果の出来事であると身をもって示し続けた。
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山下洋輔 ジャズ・ピアニスト
タラフマラ族という人々が本当にいて、どこまでも走り続けられるという。小池さん率いるこの創造の一族も、音と造形とアクションを巻き込んで、芸術の未知の領域へと走り続けてきた。現場で究極の表現が完成する瞬間のカタルシスは唯一無二のものだった。解散すると聞き大変残念だ。「ファイナルフェスティバル」での爆発を期待している。
yoshimoto_mitsuhiro吉本 光宏_photoby杉全泰.jpgPhoto by 杉全泰
吉本光宏 ニッセイ基礎研究所主席研究員
カンパニーとしての地道な稽古と強靱な身体性に裏打ちされたパフォーマンス、そしてダンス、演劇、美術、音楽の境界を縦横無尽に行き交う表現。パパタラの解散は、そうした芸術の存在を支えきれなかった日本の文化政策に対して、大きなNOを突きつけているのではないか。
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佐竹由美 オペラ歌手
パパ・タラフマラの舞台を見るのが楽しみだった。扉を開けた瞬間からそこには凛とした空間が広がり、神経が研ぎ澄まされていくような心地よい感覚に包まれた。パフォーマーたちの深く鋭い呼吸に自らの呼吸を合わせ、目に飛び込んでくる色彩や動きを視神経を360度広げて五感で捉えたいと思った。妥協のない舞台が好きだった。解散はとても残念ではあるが、それは31年目の挑戦であると確信している。
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八重樫みどり ストリングラフィ プロデューサー
1987年にパパ・タラフマラの作品に出会って衝撃を受けて以来、ほとんどすべての作品を見てきました。同じ作品を何回も見る喜びも味わいました。どの作品からも必ず感じるのは、「未来への希望」です。これからは、こんな時代だからこそ小池博史の持つパワーを様々な形に変え、特に子どもたちに伝えて行って欲しいと思います。
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川島恵子 プランクトン音楽出版代表/プロデューサー
パパタラの舞台には宇宙の重力が浮遊し、音が光と共に変容し、おもちゃ箱から人間が湧き出る。得体のしれないオブジェが生命を伴って襲ってくる。これは原始なのか、近未来なのか。小池博史氏の永遠の住処、舞台空間にはすべてが呼吸がしていた。そんな、何もが生きている世の中だと楽しいと思う。
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萩尾瞳 映画・演劇評論
「パパ・タラフマラ」が解散するなんて、本当に驚きです。常に、面白い切り口と新鮮な振付と素敵な美術で、楽しい舞台を見せてくれていたのに。独自のジャンルを確立していたカンパニーだけに、ずっと続いていくものだと思っていました。でも、きっと、これは新しい冒険へと第一歩なのだとも思います。